「多いときは300人以上いたよ」
ここは、千葉県九十九里町真亀。
外房線大網駅からバスで30分ばかり行ったところにあります。
今ではバス通りでさえ、たまにしか車が通らないような静かな町ですが、戦後、昭和23年頃から進駐軍のキャンプがここにはありました。
そのころはまだ九十九里町ではなく、豊海町といいました。
漁業が盛んな、文字通り豊かな海に抱かれた町でした。
ところが、進駐軍キャンプができてから、すべてが変わってしまいました。
母なる豊かな海は、進駐軍の演習場となってしまい、自由に海に出ることができず、漁ができなくなりました。
生活に困り、高く売れる薬きょうを拾いにキャンプに忍び込んで撃ち殺された住民もいました。
家にいたところ、いきなり入ってきた米兵に無理やり悲しい思いをさせられた住民もいました。
そして、キャンプの近くにはパンパンハウスが並び始めたのです。
「多いときは300人以上いたよ」
冒頭の言葉は、今回、話を聞かせてくれた、このキャンプの近くに住んでいたおにいさんの言葉です。
門前市を成すとばかりに、立ち並んだパンパンハウスには多い時で300人以上のパンパンさんがいたそうです。
パンパンさんというと自由なイメージがありますが、ここのパンパンさんは名簿で管理されていたようでした。
「パンパンハウスはこの通りに多かったのでしょうか」
おにいさんと出会った通りを指してぼくは尋ねました。
「この通りだけじゃないよ。この辺一帯がそうだった」
このあたりのパンパンハウスといえば民家に間借りしているものだと思っていましたが(以前に読んだ本にそのようなことが書いてあったと思います)、間借りだけではなく、専門の店もあったとのことでした。
また、進駐軍目当てにできたパンパンハウスとはいえ、すべてが進駐軍専門というわけではなく、店によっては日本人客も受け入れていたそうです。
「地元の人としては迷惑だったでしょうね」とぼく。
「いや、この辺りのほとんどの家がやっていたから」
おにいさんはあきらめたような表情で言いました。
生きるためには、したくないことをしなければいけないときもあるのです。
「初めて見た黒人が怖くてねえ…」
おにいさんは当時、中学生でした。
小柄なお兄さんにとって、たくましくて大きな黒人兵は脅威だったでしょう。
「でも、チョコレートをもらって食べたとき、こんなにおいしいものがあるのか、と驚いたもんだよ」
帰りのバスの時間が近づいてきました。
このバスを逃すと、次のバスまで1時間以上ありません。
ぼくは丁重におにいさんに礼をいうと、バス停へ向かったのでした。
(2021年11月30日)